今回の記事は、ふと思った疑問に対して、今の考えをまとめるために書きました。
雑記ブログだからこそ書ける内容ですが、同じような疑問を持った方と情報交換できればとも思いました。
さて、ふと思った疑問とは、タイトルにあるように『人の命の価値は平等か』ということです。
命の大切さや尊さを世間では言われているけれど、どうなのだろう。
実は、私はテレビで見たりする遠くの誰かの死に、そこまで悲しくならないのです。
それがいけないことなのか、私は非情な奴なのか、とか思ってたわけです。
そんなことがきっかけで考え始めました。
結論の前に。問いの設定が不十分なのでは?
結論から言うと、平等じゃない。てか、問いの設定が不十分なのではないかと思いました。
その理由は、評価者の存在があるからです。
価値を決めるということは評価をすることであり、例えば『人の命は価値が等しく大切だ』と評価する者の存在が前提にあります。
ここで誰が評価するかと言えば、今回は人という設定にします。
神とか宇宙人とかAIとかもあるかもしれませんが、今回は人にしましょう。
で、人が評価をする時点で、絶対的な価値というのは言えないと思います。
『これが絶対的な命の価値なんだ』みたいなことは、言えないということです。
だって、人類に普遍的な絶対的なことなんて、誰にも言えないですよね。
なので、抽象的な概念的な命の価値の話をしても仕方がない。
仮に決めたところで、それは真実ではなく、納得しない人もいることでしょう。
人の命の価値=人類の命の価値
そこで、命の価値と言う時、地球に存在する人類の命の価値という設定に変化するわけです。
つまり、抽象的な命の話ではなく、実在する命の話になるということです。
人類という無数の命を、1つの命である私が評価する。
人の命とは、無数の命のことで、1つ1つの誰かの命であり、実在する誰かの命。
そう考えた時、身近な親しい人の命の価値と、知らない遠い国の人の命の価値を、私という評価者が比べたら、その価値は違ってくるのではないでしょうか。
なぜなら、身近な人と知らない人では、情報量の差が生まれるからです。
価値が生まれるには、情報が必要でしょう。
誰かが評価をするとき、何も情報がないところでは評価できません。
仮に、写真でみた人なら、姿などしか情報がないことになり、評価はあまり生じません。
それが、身近な人で、親身に世話をしてくれたりして大切な人だと感じていれば、そもそも情報が多く、かつ良い評価、すなわち命の価値が高いと判断される可能性が高いです。
そもそも、命の価値とは何か、ということですが。
これも絶対的な定義はないので、最終的には各々が考える・感じる命の価値になるのではないでしょうか。
人類の命の価値はあなたにとって平等に存在するのか?
こんな問いの設定の仕方にしたら、どうでしょうか。
命は有限で、再生不可能で、代替不可能なので、価値がある・大切であるとも考えられます。
しかし、この条件だけでは十分ではなく、評価者と評価される者との関係性やそれぞれの価値観が評価に反映されるのが現実かと思います。
だから、ニュースで見る知らない人の死と、身内の人の死で、それぞれに対する反応が違うのは、そのためではないでしょうか。
私の周りを見れば、同じように違った反応を示している人が多いです。
むしろ、平等に反応している人を見たことがありません。
ですので、私が評価する誰かの命の価値は、誰の命かによって異なるということです。
よって、上の問いに答えるとすると、人類の命の価値は私にとって平等に存在していないと答えざるを得ません。
それが皆さんにも当てはまると思うのです。
ここまで読んで下さった方、いかがでしたでしょうか。
仮に、皆さんの周りに、人の死において、平等に反応している方がいれば教えていただきたいです。
そのような方は、人類を超越するような存在のように思えます。
もしかしたら、悟りの境地にいるのかも。
皆さんのご意見を聞かせて下さればありがたいです。
良い本などありましたら、教えてください。
最近では、こちらの本がベストセラーとなっています。
どうすれば自分の人生を最も価値のあるものに出来るか、考えさせられます。
私もさらに考えていきたいです。
自分が決める自分の命の価値ということも気になりますので、機会があれば、それについても考えていきたいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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